■ はじめに:画期的な翻訳サービスの登場
2026年6月、石川県金沢市が市役所保険年金課の窓口に多言語翻訳サービス「KOTOBAL(ことばる)」を導入することが発表されました。コニカミノルタが開発したこのシステムは、AIによる機械通訳で最大33言語に瞬時に対応し、透明なディスプレイに会話をリアルタイム表示することで、対面でのコミュニケーションをスムーズに実現します。
金沢市では近年、ネパールやフィリピンなど東南アジア出身者の転入が増加しており、この翻訳サービスの導入により窓口業務の効率化を図る狙いがあります。実際に訓練を受けた職員からは「リアルタイムで翻訳が出るので時間差がなく、説明がテンポよくできる」との声が上がり、アメリカ人国際交流員も「保険も年金も何でも伝えられる」と高く評価しています。
行政書士として在留資格申請を専門に扱う私も、このような技術革新には大きな期待を寄せています。特に現場の職員の方々が感じる「言葉の壁」という心理的ハードルを大きく下げる効果があるでしょう。
しかし、ここで立ち止まって考えるべき重要な問題があります。それは「言葉が通じること」と「内容を理解すること」は全く別の問題だということです。
■ 翻訳だけでは解決しない「制度理解」の壁
日本の行政制度や社会システムは、非常に複雑で多層的です。例えば税制一つをとっても、市町村税、都道府県税、国税という3つのレイヤーに分かれており、それぞれ異なる目的と使途があります。
社会保障制度はさらに複雑です:
- 社会保険(厚生年金、健康保険、雇用保険、労災保険)
- 国民年金
- 国民健康保険
これらの制度は、加入条件、保険料の計算方法、給付内容、手続き窓口がすべて異なります。企業に雇用されている場合は社会保険、自営業や無職の場合は国民年金・国民健康保険——この違いを正確に理解している日本人はどれほどいるでしょうか。
実は、私たち日本人でさえ、これらの制度を完全には理解していないのが現実です。給与明細を見ても、なぜこれだけの金額が引かれているのか、それぞれの控除が何を意味するのか、詳しく説明できる人は少数派でしょう。
このような複雑な制度を、単純に母国語に翻訳したところで何が起こるでしょうか?
確かに「単語の意味」は理解できます。”National Health Insurance”(国民健康保険)、”Resident Tax”(住民税)という訳語を見れば、それが何を指すかは言葉として理解できます。
しかし、それだけでは不十分なのです:
- 自分はどちらの制度に加入すべきなのか?
- 保険料はいくら払うのか、いつまでに払うのか?
- 払わなかった場合どうなるのか?
- この制度によって自分はどんなサービスを受けられるのか?
- 母国の制度とどう違うのか?
これらの「実生活に直結する具体的な疑問」に答えられなければ、本当の意味での理解には至りません。言葉はわかっても、行動できないのです。
■ 企業の人事担当者が直面する同じ課題
在日外国人を雇用する企業の経営者や人事担当者の皆様も、まったく同じ課題に日々直面しているのではないでしょうか。
外国人社員に給与明細を渡し、各種控除について説明する場面を想像してください:
- 厚生年金保険料
- 健康保険料
- 雇用保険料
- 所得税
- 住民税
これらを一つひとつ説明しても、相手が本当に理解しているかどうか、確信を持てないことはありませんか?
「わかりました」という返事が返ってきても、それが本当の理解なのか、それとも「とりあえず返事をした」だけなのか——この見極めは非常に難しいものです。
さらに複雑なのは、在留資格に関わる問題です:
- 転職する場合、在留資格の変更が必要か?
- 副業は在留資格上認められているか?
- 家族を呼び寄せる場合、どのような手続きが必要か?
- 在留期間の更新はいつまでに行うべきか?
これらの質問に即座に答えられる人事担当者は、残念ながら多くありません。そして外国人社員本人も、日本語が多少できたとしても、法律用語や行政用語を完全に理解するのは極めて困難です。
その結果、重要な手続きが遅れたり、知らないうちに法令違反状態になってしまったりというリスクが生じます。
■ 「言葉が通じる=安心」の落とし穴
金沢市の翻訳サービスのような技術は、間違いなく素晴らしいツールです。窓口職員が外国人対応に感じる心理的負担を軽減し、基本的なコミュニケーションを円滑にする効果は計り知れません。
しかし、ここに大きな落とし穴があります。それは「言葉が通じるから大丈夫」という安心感によって、かえって説明が不十分になってしまう可能性です。
翻訳ツールがあることで、職員は「伝えた」と感じます。外国人住民も「聞いた」という状態になります。しかし、本当に「理解した」かどうかは、また別の問題なのです。
私が行政書士としてこれまで数多くの在留外国人と接してきた経験から言えるのは、最も重要なのは以下の点だということです:
1. 制度の「なぜ」を説明する
「この書類を出してください」ではなく、「なぜこの書類が必要なのか」「この制度はどういう目的で作られているのか」を説明すること。
2. 具体例を示す
抽象的な説明ではなく、「あなたの場合、具体的にはこうなります」という個別のケースに落とし込んで説明すること。
3. 視覚的資料を活用する
文字だけでなく、図解、フローチャート、イラストなどを用いて、視覚的に理解を助けること。
4. 理解度を確認する
「わかりましたか?」ではなく、「今説明したことを、あなたの言葉で説明してもらえますか?」と確認すること。
5. 次のステップを明確にする
「この後、あなたは何をすればいいのか」を具体的な行動として示すこと。
これらは、実は翻訳技術では解決できない部分です。人間による丁寧なコミュニケーション、相手の理解度に合わせた説明の工夫が不可欠なのです。
■ この姿勢は日本人に対しても同じく重要
興味深いことに、このような「丁寧に説明する」姿勢は、実は日本人に対しても同様に重要です。
「日本語ができる=理解している」という思い込みは、外国人対応だけでなく、日本人への行政サービスにおいても同じように存在します。
税金や社会保険、各種申請手続きについて、きちんと理解している日本人は実は少数派です。多くの人が「なんとなく」「言われた通りに」手続きをしているのが現実ではないでしょうか。
もし自治体や企業が、外国人対応をきっかけに「誰に対しても丁寧に、理解できるまで説明する」という文化を育てることができれば、それはすべての住民・従業員にとって大きなメリットになります。
言い換えれば、外国人対応の改善は、実は組織全体のコミュニケーション品質を向上させる絶好の機会なのです。
■ 行政書士として心がけていること
私が在留資格申請や外国人雇用支援の業務において、常に心がけているのは以下の点です:
書類作成だけでなく、制度理解のサポート
「この書類に記入してください」ではなく、「この在留資格はこういう目的のもので、あなたの場合こういう条件を満たす必要があります」と、制度そのものから説明します。
視覚的資料の活用
フローチャート、図解、タイムラインなどを用いて、複雑なプロセスを視覚的に理解できるようにします。
企業向け説明資料の提供
人事担当者が外国人社員に説明する際に使える資料を作成し、企業内での情報共有をサポートします。
「なぜ」の説明
法律や規則の背景にある考え方、なぜそのルールが存在するのかを説明することで、応用的な判断ができるようにします。
理解度の確認
一方的に説明するだけでなく、質問を促し、理解度を確認しながら進めます。
これらは時間がかかる作業です。単純に書類を作成して提出するだけなら、もっと短時間で済むでしょう。しかし、本当の意味での支援とは、相手が自分で判断し、行動できるようになることだと信じています。
■ 真の多文化共生社会に向けて
金沢市の多言語翻訳サービス導入は、重要な第一歩です。技術の力で言葉の壁を低くすることは、間違いなく意義があります。
しかし、それだけで満足してはいけません。次のステップは「言葉を超えた理解」の実現です。
そのためには:
- 翻訳ツールを「手段」として活用しつつ、制度説明の充実化を図る
- 職員や担当者への研修で、「伝える」だけでなく「理解させる」スキルを育成する
- 視覚的資料、多言語対応の図解マニュアルなどを整備する
- 外国人住民からのフィードバックを積極的に収集し、改善に活かす
- 企業と行政が連携して、一貫性のある情報提供体制を構築する
このような取り組みが全国に広がることで、在日外国人が本当の意味で日本社会に参加し、安心して生活できる環境が整います。
そしてそれは、日本人にとっても、よりわかりやすく親切な行政サービスを受けられる社会の実現につながるのです。
■ まとめ:言葉の先にある「理解」を目指して
金沢市の取り組みに見られるように、日本の自治体や企業は外国人対応において着実に前進しています。技術の進歩は、かつて不可能だったコミュニケーションを可能にしています。
しかし、私たちが目指すべきゴールは「言葉が通じる」ことではなく、「制度を理解し、自分で行動できる」状態です。
翻訳技術は強力なツールですが、それは目的ではなくあくまで手段です。本当に必要なのは、言葉を超えて相手の理解度に寄り添い、丁寧に説明し、確認し、サポートする——そんな人間的なコミュニケーションです。
在留資格申請、ビザ更新、外国人雇用に関わる複雑な制度について、単なる書類作成代行ではなく、「理解できるまで説明する」サポートを提供すること。それが私たち行政書士の使命だと考えています。
もし在留資格、外国人雇用、多文化共生に関してお困りのことがあれば、どうぞお気軽にご相談ください。言葉だけでなく、制度そのものを理解していただけるまで、丁寧にサポートいたします。
参考記事:
「AIで最大33言語を瞬時に…外国籍の住民が多く訪れる金沢市役所の窓口に『翻訳サービス』6月から導入へ」石川テレビ
https://news.yahoo.co.jp/articles/67cd1fe9bd8588b39e036539cdcd3051156a2655
